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3月1日

未明に、ネパールの祖母が亡くなった。

94歳、大往生でした。

そろそろ30年生きてるぼくと90年以上生きた彼女は、結果としてほぼきちんとした会話をしたことがなかった。

父から祖母の話を聞いたことなどない。でも父は祖母と同じ顔をしていて、祖母のために、祖母に認めてもらいたくて父は日本で頑張ってきたということを昔から母に聞いていた。

祖母はここ数年は具合が良くなく、一日の大半はベッドで横になっていた。痴呆もあったので、一昨年ネパールへ行った時も、ぼくに向かってプル(父の名前)か?帰ってきたのか?とぼくに聞いたりしていた。実の子すらわからなくなるのは痴呆もだが、遺伝も怖いなと思った記憶がある。父とぼくは激似だ。

回数にして10回ほどであろうか。ぼくが生まれてから祖母がいるネパールへ行く機会は本当にそれくらいで、日本に家族がいる家庭では考えられないくらい、頻度も少なかった。過ごした時間は当然1年にも満たない。夏休み1回分しか過ごせなかったと思う。

だからあった時には、ほぼ毎朝たくさんハグをして身体でぶつかるというか、魂を震わせる感じではあった。

ネパール語が話せないぼくと英語がわからない祖母のコミュニケーションは、ハグ、握手、アイコンタクト、笑顔、ショタ!と呼ばれて適当なそれっぽいはーいと返事をするくらい。

あとは目の前にいるけれど、父に翻訳してもらえてようやく言葉を介したコミュニケーションとも言えないコミュニケーションを取るくらいしかなかった。怒ってるかのような口調でドドドドッと話しては、急にケラケラ笑うアジア圏独特のリズム。父を介して話をしていてもお互い目はちゃんと見ていたと思う。ぼくは人の目をがっちり見て話すのができる時とできない時の差が激しいが、祖母とは簡単にできた。

お互い直接自分の口から出た言葉では話せなかったが、ぼくは日本語と英語で祖母に話し、祖母がネパール語でぼくへ話しかけるという、大変に身勝手なコミュニケーションをお互いでして、お互いウンウンと、ニコニコしていたこともあった。

そんな祖母が旅立たれたという報せを母から聞いた時、やっぱり涙が出た。自分のblogでありlogなので正直に書く。

本当に正直な話、自分では少し意外だった。

上にあのように書いたら良さそうに聞こえるが、でもやっぱり言語のコミュニケーションがないというのは大きい。言語でできるコミュニケーションというのは当たり前だからこそ特別で、認識しづらいけれど大きな壁を超えている。家族だからということはあるにしても、少し、いや友達よりも遠い存在だった。

ヒトとヒトのコミュニケーションとして好きな食べ物の話もできたことのない祖母を、本人の口から出た言葉をなにも理解できなかった祖母を、ぼくがどう思っていたのか。それでもやっぱり家族であり、ぼくにはネパールの血が流れているのだなあと思った。少しスピリチュアルな話でいよいよこいつやばいのかと思われるかもしれないが、亡くなったと聞いた夜、祖母の夢をみた。夢なのか意識の中に出てきたのかはわからない。その中で祖母とは日本語で話せた。少し救われた気がして、起きてまた少し泣いた。

経済観念の緩いネパールの家系で6人兄妹の5番目で比較的経済観念のあった父。20代半ばで祖国を離れひとり日本に来て30数年、学校に通い、働き、家族をもち、ネパールに4世帯が住める家を建て、目黒にささやかな戸建を買い、子供を1人育て上げ、と頑張ってきた父もさすがにすこし疲労しているように見える。麦焼酎と漬物が好きなので、少しいいやつを、買って実家に帰ろうと思う。

ネパールとぼくの関係に正解はないと思ってる。国とぼくもそうだし、人とぼくもそう。家族、親戚の在り方は、日本の普通の家庭と比較したら、当然普通ではない。なにも普通ではないから、なにが正しいもない。他の人にはわかるわけないし、わかったとも言われたくないし、でも知ってもらいたかったりもする。この忙しい複雑な感情はきっと一生背負うもの。これもどう気持ちを処理するかということではなく、うまく付き合っていくことなんだと思う。また模索し続けるしかない。

年に一回会いに行くこともなかなかできない。ただ、大切なぼくのルーツであることに間違いはなく、心の中にネパールを想う場所があることは確か。時間が流れても、ぼくの中に祖母の血が流れる限りそうなんだと思う。

これを書いている今もそうである。

ネパールのおばあちゃん、

遅くなったけど、どうか安らかに。

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