趣味で写真を撮るようになって10年ほどが経つ。母親が写真をやっていた影響もあり、自宅には簡易暗室があったりと小さな頃からカメラや現像などの言葉も人より触れる生活だった。カメラを持ち出した当時はまだ大学生で、きっかけはなんとなく一眼レフを持っている人がかっこよかったから、だった気がする。母親が僕の高校野球を記録として残すために買った当時最新のデジタル一眼を借りて始めた。Nikonだった。
デジタル一眼を持ちはじめてしばらくは本当に撮って撮って撮りまくっていた。同じ場所で同じ方を向いて一瞬一瞬変化する光や波、木の葉など、寄ったり引いたり、見てなんとなく良いと思ったものをなんでも撮るスタイルだった。一度に数百枚撮った。でもSDカードのデータをPCに記録すればまたすぐ数百枚撮れる。デジタルカメラは革命的だなと思っていた。
何よりとにかく撮ることが楽しかった。それは今でも変わらないし、いまでもそうやって撮ることもあるが、あの時程バシャバシャに撮ることはなくなった。
2年前、6月に個展が終わってから中古のフィルムカメラを買った。それも10年前同様なんとなくフィルムが気になったからだったが、フィルムカメラを持ち始めた時から少し自分の写真との関係が少し変化した、ような気がする。当時書いていたBlogには発作的に欲しくなったと書いてあった。
丨自分の写真が好きになった
フィルムカメラを持ってから、わかりやすくシャッター数が減った。理由は単純でフィルムは撮れる枚数が決まっているからだ。デジタルは満足するまで撮り、あとから良い写真を選択する。自分が最高だと思う瞬間が来るまでの間もシャッターを押し続けていた。だが、フィルムではそうはいかない。枚数が減るのは自然な流れではある。フィルムではolympus 35spとpentax 6×7の2台を使っている。olympusは36枚、6×7は10枚撮り。
ただ枚数が減っただけだと思っていたが、実はフィルムを始めてから自分の写真がすごく好きになった。自分の写真を好きになった理由と思うことは3つ。
①撮る写真が”何となく”ではなくなったこと。
②写真に対する求めるもの・許容の変化。
③被写体の変化。
すべて大きな変化だと思う。
丨この写真はなぜ撮ったのか
撮影という行為の中で、なんとなく良いと思う瞬間になんとなくシャッターを押すという流れ自体は今もそこまで変わりはないのだが、そのなんとなく良いがデジタルの時よりもなぜ押したのかをフィルムでは鮮明に覚えている。意思がある。説明ができる。理由がある。
現像という工程を経て見れることも関係あるかもしれない。写真屋さんへフィルムを持っていって、数日後に出来上がりをもらう。撮った直後にモニターで確認できるわけではないので、現像上がりのコンタクトシートを見ると、シャッターを押す瞬間が全て戻ってくる感覚がとても心地よい。フィルムを使いだした当時のBlogにも頭の中が整理されると書いてあった。これはいまでも全く異論はない。
一枚一枚に対して自分がなんで撮ったのかが明確で、なぜこれが良いのかが自分で言えるのは大きい。カメラで撮った写真はSNSにはそこまでアップもしないので、趣味でやっている限り、1枚の写真についてだれかと語らうことはあまりない。
ただ個展は違う。わざわざ写真を見に来るので、当然質問される。写真を介して会話が生まれる。1度目の個展ではすべてが初めてで、当時はきちんと整理していたつもりだが、今思えばうまく喋れなかったと思う。面白い視点を発見しました!と発表している感覚に近かった。
2度目の個展は自分のなかで一貫したストーリーがあった。学生の頃と比較すると社会人経験で喋りもそれなりにできるようになっていたので割とうまく喋れた。満足感はあった。褒められもした。一方で、好きな写真ではあるが会話が生まれそうな、見え方が良さそうな写真を集めたような気もしていた。
丨なんでフィルムだったのか
発作的に欲しくなったのはなんでだったんだろう。と考えるとおそらく自分の写真に行き詰まっていたんだと思う。きれいでいい写真を撮りたい、見る人の多くが良いなと思える写真を撮りたい、まだだれも見つけていない視点で撮りたい、という自己表現や美しさにウエイトをおいた写真にうっすら限界を感じていたのかもしれない。今の写真は以前よりもきれいな写真や目新しさはないが、見る人になんでこれが良いのかをきちんと説明できるし、自分で好きだと思える。
想定仕上がりとは違うものが撮れていることもある。あとコンマ何秒で自分の理想だったのに、デジタルだったら押し続けて残せたかもしれないのに、絞りを変えて複数とれたのに、そう思うことも正直なくはない。
が、まあでもそれでもいいし、むしろそれがいい、これが自分の写真だな、と思えるようになった。これが許容。求めすぎていたし、自分に可能性を感じていたのかもしれないが、どこか肩肘張った作品だったのかもしれない。その瞬間としての結果がその時の関係性であり、それで良いと思えるようになってきた。
丨人の撮影
デジタルでは作品の対象に人が入っていなかった。苦手な意識があった。よくなぜかと聞かれたが、「苦手意識があるから、その状態で撮影をしてもその人の魅力を伝えられないと思う」と言っていた。そんなのは嘘で本当はそうではない。自然そのものにフォーカスしたかったといえば聞こえは良いが、人の撮影はその人の背景や感情など情報量が多いからあまり好まなかった。人ではない自然そのものの美しさを捉えたかった。自分がきれいと思う一瞬は自然にあって、人はその対象から外れていた。カジュアルにiphoneで友人などを撮影することは当然あったが、それはそれ、写真は写真と思っていた。
これに関してはフィルムカメラの使用もそうだが、妻と同棲してから考えが変わった。実家同士で付き合っていたころには見れなかった日常での表情が出てきて、「あれ これは残さないといけないかもな」と思うようになった。基本的にはひょうきんな人なんだと思う。笑わせようとしてくるし、いい意味で無駄に表情のバリエーションが豊富でその表情とその時の感情を写真で残すという行為が楽しそうと思えた。写真を通じて初めての感覚だった。彼女がこの自分は写りが悪いと思う写真でも、僕からするとその不完全さも良いと思う。先に書いた許容も相まってか、視覚的美しさを求めていた時にはなかった、情報量を纏った人の魅力が今は見える。
丨写真との関係
この写真は祖母の家の庭で祖母と過ごした昨年のGW。フィルムで撮った。ここで2日間でたくさん話をした。「ここに来て60年以上経つけど、ここで土を触ったり、こうして山を見てのんびりしていると自分らしいと思える、最初は嫌だったけどね」とこのときは言っていた。言葉も空気も絶対に残しておきたいと思った。

フィルムでは積極的に人も撮っていて、克服でもないがデジタルでも人を撮れるようになった。そうなるとやっぱりデジタルは革命的だとも思える。それぞれを使い、良さを知り、一通りのプロセスを踏んだことで、写真に対する深度が1段増した。
気がする。
写真なので、瞬間的な切り取りであることに変わりはないが、その瞬間に至るまでのストーリーや情報を含めて残していくことが、自分のよいと思えるものになっていくのかもしれない。
出来事や年齢によって変化する部分が少なからずある。カラダと運動もそうだし、仕事と集中力もそうだし、たぶんなんにでも言えることだが、その時に自分が続けやすいカタチで続けていく。そうやって写真と自分の関係を続けていきたい。
次の個展はフィルムでも出せるようにしたいと思っている。